不言実行
ここ最近「有言実行」という言葉をやたらと耳にする。実はこの言葉、「不言実行」をもじってつくられた「造語」で、多くの辞書などに載るようになったのは、ごく最近のこと。でも今では、新聞やテレビなどでも当たり前のように使われるようになり、本家の「不言実行」よりもメジャーな言葉となっている。
この言葉が特に用いられるのは、スポーツ選手に対してである。「金メダルを取ります」「今シーズンは優勝します」などと高らかに宣言し、実際にそれを実現する。そうした人たちを指して「有言実行の人」とメディアは絶賛し、人々も賞賛の声を送る。実際に自分で「宣言」したことを成し遂げるのだから、人々が「カッコいい」と賞賛するのも理解できる。最近はスポーツに限らず、政治家や経済人、芸能人などにおいても、こうしたタイプの人が持てはやされているようになっており、時代は「有言実行」タイプの人間を求めている、とも言える。
一方で「不言実行」という言葉は、めっきりと聞く機会が少なくなったように思える。実はコチラが本家本元の四字熟語なのだが、派生した亜流の四字熟語に駆逐されているのは、何とも不思議な現象である。ちなみに、類語で「無言実行(むげんじっこう)」というものがあるが、この言葉なんぞ、知らない人も多いに違いない。
一昔前の日本は、「不言実行」タイプの人間が持てはやされてきた。それは、あれこれとモノを言わず、ただコツコツと結果を残す姿勢が、日本人的な美学の琴線に触れていたからに他ならない。そこには、「不言」の裏側にある人間の努力や苦悩を読み取ろうとする、周囲の人間の「懐の深さ」があったのではないかと私は思う。
そうした「美学」が、ここ数年で変わってきてしまった。何も言わず、結果だけ淡々と残しても、それに対して人々は、ごく単純な事実としか受け止めようとしない。スポーツ選手で言えば、広島カープの前田のような選手が典型的な「不言実行型」人間だと私は思うが、彼がメディアに出てくる機会は、年々少なくなっているように思う。彼が、日ハムの新庄を遥かに凌ぐ実績を残す、偉大な現役選手であることは、ある程度のスポーツ通でない限り知らない。それは、大衆メディアが彼のような人間を求めていないからだと、私は思う。
「宣言」して「実行」あるいは「実現」するのが、「カッコいい」のは確かで、多くの人が憧れるのもよく分かる。でも、「不言実行」が廃れている現況には、少々寂しい思いがしているのは、私だけであろうか。
一つ気になるのは、「有言実行」が持てはやされるようになったためか、意味もなく「宣言」する人間が、やたらと増えていることだ。「俺は○歳までに、○○をする」「今年は、絶対に○○をする」などと友人達の前で恥ずかしげもなく言い切り、注目を集める。それが「会社を辞める」だったり「タバコを止める」だったり「結婚する」だったりと、実にバラエティに富んでいるのだが、私の周囲を見る限り、こうした「宣言」を軽々しく言い放つタイプの人間ほど、実際には結果を残せていないように思う。すなわち、「有言不実行」タイプの人間がやたらと増殖している、とでも言えるだろうか。
別にそれを「嘘つき」だと非難するわけではない。宣言をすることで誰に迷惑をかけているわけでもないし、周囲だってその宣言を真面目に受け止め、成否に注目しているわけでもない。また、敢えて宣言することで自らを奮い立たせ、目標の実現にまでは至らなくても、少しは努力することができるなら、それは悪いことではないと思う。
でも、古来から日本にあった「何事も言わず、コツコツと結果を残す」タイプの人間が、どこか窓際に追いやられているような状況に、寂しさを覚えてしまうのは私だけだろうか。
自分は、どちらかと言うと高らかに宣言するのが苦手なタイプだけに、こうした風潮をあまり好きになれない。
〔2006.5.24 弊社代表・佐藤明彦〕