有頂天ホテル

060206.JPG昨日、映画『有頂天ホテル』を見た。三谷幸喜氏監督作品は、『ラヂオの時間』『みんなのいえ』ともに見たので今回が三作目だったが、前二作にも勝るとも劣らない面白い内容であった。

まだ見ていない人も多いと思うのでストーリーは詳述しないが、大まかな構成としては、ホテルを舞台とした幾つものドラマがパラレルに展開して、やがてそれらが複雑に交錯して新たなドラマを生み出していく…といった感じである。ややクエンティン・タランティーノ監督の『フォールームス』に似た手法とも言えるだろうか。だが、『フォールームス』に比べて登場人物の数は圧倒的に多く、物語はスピーディかつ目まぐるしく展開していく。

前々作『ラヂオの時間』では、ラジオドラマという舞台を通じて日本社会の「ホンネvsタテマエ」が、前作『みんなのいえ』では家づくりを通じて「日本の伝統文化vs進取の精神」が、それぞれ皮肉混じりに面白おかしく描かれていた。だが今作では、「皮肉っぽさ」はやや鳴りを潜め、代わりに「笑い」の要素が前面に押し出されていたように思う。

だが、ただ面白いだけのコメディというわけではない。物語を通じて描かれていたのが「夢」である。その昔「夢」を諦めた男、今まさに「夢」を諦めようとしている男、「夢」を実現する手立てが見つからずに苦しむ女、実現した「夢」行き詰ってしまった男…。こうした人物が必死にもがいて「何か」をつかもうとする。それが妙な行動となって現れ、とんでもないハプニングの数々を生む。そして最後には、一時的にでも多くの「夢」が現実となり、人々は歓喜のフィナーレを迎えるのである。

数多くの登場人物と物語を絶妙に交錯させ、一つの大きなドラマへと集約しているあたりはさすが三谷幸喜、と唸ってしまった。この人の作品は、人間の人間たる所以、人間らしさを、悲壮感とは無縁の世界で描いている点がスゴイと思う。

それにしても、映画を見終わった後にふと思った。ここ最近、自分は夢の欠片でも実現し、一時でも「有頂天」になれた時間があっただろうか…。

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