ジダンの頭突き

060710.jpgワールドカップの決勝戦で、フランスの英雄・ジダンが、相手に暴力行為(頭突き)を働いて退場処分となった。世界的スーパースターが犯したこの行為に対し、各国のメディアは「引退と言う花道を飾るに相応しくない愚行」「現役生活最後に残した汚点」として、容赦ない批判をぶつけた。日本の新聞も同様である。

私自身も、彼が犯した行為を擁護するつもりはないし、どちらかと言えば残念と感じている。しかし一方で、そんな結末を「彼らしい」とも感じている。そう、彼にとってワールドカップは勝っても負けても有終の美を飾る「美しい舞台」でも何でもない、すべては勝つための「戦場」の一つに過ぎないのだ。負けて「全力を出し尽くした」なんて、潔いコメントをするより、よほど今回のような結末の方が、“戦士”として戦い続けた彼らしい姿なんじゃないだろうか。

私たちはスポーツ競技に対し、小説のような「起承転結」を求めすぎている。本来は「筋書きのないドラマ」であるはずのスポーツに、何らかの文脈を見出し、ストーリー性を付加しようとする。それはときに「師弟対決」だったり、「親子の絆」だったり「有終の美」だったりする。でも、それは私たちが自分勝手に用意した、心地よい筋書きに過ぎない。戦っている当事者の目の前にあるのは「試合」であり、「勝負」であり、「戦い」であるのだ。

スポーツ選手は時に、さまざまな誤解を受ける。ジダンの“頭突き”も、都合よくフィクション化しようとするマスメディアに誤解されているように思えてならない。

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