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着服

070530.jpgJALの機内清掃を請け負う会社の社員が、清掃時にあった客の忘れ物を着服していたとの話が、ヤフーニュースに出ていた。なるほど、清掃していた時に、高級時計やアクセサリーなんかがおいてあれば、ついぞ手を伸ばしたくなるのが人間の心情というものだろう。あまりに単純かつ安易な悪行ゆえ、少々苦笑いしてしまった。

こうした不祥事が起きるから「コンプライアンス」がもてはやされる。おそらく、背景には個々人の道徳観の喪失があるのであろう。モラルの欠如が「バレなければ」との下心が顔を覗かせ、我慢をすることもできない。そんな動機から生まれる犯罪が増えているように思う。

梅原猛氏は、著書『神殺しの日本』の中で、そうした道徳心の崩壊が、2度に渡る「神殺し」の上に生まれた必然であったと述べている。明治維新時の廃仏毀釈と終戦後の神道・教育勅語の否定。自らが歴史と共に築き上げてきた神を否定し、その「殺害」が人々から宗教心と道徳観を奪ったとのことである。

私はあまり「道徳」という言葉が好きではないし、特定の宗教に帰属しているわけでもない。ただ、「自由」が無責任や怠惰、モラルの欠如を生む構造は分かるだけに、梅原氏の指摘は納得できる。

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comments

梅原猛さんの著書は読んだことはないのですが、モラルが欠如した人は増えたように思います。
現在の子供のいじめでも「親の前でばれなければ、裏で何やってもいい」みたいな。結局は、社会の縮図なのでしょうか?
西洋文化の「個性の尊重」を「自分勝手に振舞うこと」と解釈している人が多いのも嘆かわしいです。
私が子供の頃は、もっと倫理観が罷り通っていたような気がするのですが…。

ミツフィさん、コメントありがとうございます。私の場合、「やさしさ」や「思いやり」ほど大切なものはないと考えている、ちょっと古風な人間のため、こうした状況はなんとも寂しいものがあります。まあ、周囲からすれば子どもじみた発想なのかもしれませんが…。

西洋文化の「個性の尊重」の裏側には、自己に対する責任や公共的な福祉(まさに相互扶助であり、思いやりの精神)があると思うのですが、日本は2度に渡る「神殺し」が、そうした柱を崩し去ってしまったのかもしれません。

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