「リンゴ」は「Apple」ではない

とある大手英会話塾では、独自のメソッドを利用し、「赤ちゃんが“ごく自然に”言葉を習得するように」英語を話せるようになるという。その考え方とは、「ある物事を指し示す、あるいは思考する過程において、母国語を介すことなく、事象と言語(英語)を直結させる」というもので、簡単に言うと「英語を頭の中で日本語に翻訳することなく話せるようにする」ということらしい。

このメソッドによって英語をマスターできるかどうかは、本人の努力による部分が大きいと思うが、しかし考え方自体はとても興味深い。ここから言葉の性質について少々発展的に考えると、「Apple」と「リンゴ」はイコールではなく、ニアイコールとなる。二つの単語は、どちらも「赤く丸みを帯びた甘酸っぱい果実」を指し示すという点で一致しているが、その単語が持つ意味性や宗教性、文化的背景、それによって喚起されるイメージなどは、微妙に(ある部分ではかけ離れて)異なっている。有名な例で言えば、「タコ」と聞いたとき、日本語を母国語としている人は「8本の足を持つ赤黒い軟体生物」であることのほかに、「寿司やたこ焼きに使用される切り身」などを想像するが、英語を母国語としている人々、とくに欧米圏では、宗教的なバックグラウンドによって、「Octopus」という単語から「グロテスクで邪悪な生き物」を想像する。よって「タコ」と「Octopus」は同義的でありながら、言葉の持つ概念の面では全く一致しないことになる。つまり「Apple」や「Octopus」といった単語を“本質的に”理解するためには、「リンゴ」や「タコ」といった単語が持つ“日本的な概念のフィルター”を除去する必要があるといえるのだ。

このことから「民族性」と「言語」は不可分の関係にあるということが指摘されており、「国家とは言語である」と主張する社会言語学者もいる。そのズレは、民族といわず、個体体験の違いによっても当然生じる。

「何が言いたいのか」と問われれば、
「それだけ人がわかりあうことは難しいんだなぁ」ということである。

ディレクターとして業務に携わる中で、日々感じるのが、「コミュニケーション不足は致命的なミスにつながりかねない」ということだ。リンゴの絵ひとつをイラストレーターに発注するにも、それが「おいしそうな」リンゴなのか、「腐りかけの」リンゴなのか、また「おいしそうな」リンゴを描くとしても、「リンゴ自体のみずみずしさ」を強調するのか、「食べた人の嬉しそうな顔」を強調するのか、といった具合に、ねずみ算式に無限の選択肢が生まれてくる。普段コミュニケーションを図る上では、「他人が自分と同じイメージを共有している」という仮定に立ち、また多くの場合その仮定に当てはまることから、別段支障を感じることはないが、仕事上のやりとりなど精度の求められる場面で、ましてや作品のコンセプトに関わる部分で誤差が生じれば、後々取り返しのつかない事態に発展することも考えられる。「言葉の綾で…」という言い訳では、済まされないのだ。

自分の頭の中にあるリンゴの形を、日々変えていかなければならないと反省する今日この頃です。


                                                    (澤田)

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